五月人形(端午の節句・こどもの日)の意味・由来 | ひなラボ

コラム(五月人形)

2019.12.02

五月人形(端午の節句・こどもの日)の意味・由来

5月5日は端午(たんご)の節句。男の子のお祝いの日です。
こ日には、鎧や兜などの五月人形、あるいは鯉のぼりを飾って、男の子の健やかな成長をお祈りします。
このような風習はいつ、どのように始まったのでしょう?

端午の節句の起源とは?

端午の節句の「端午」とは、五月で一番初めの午(うま)の日のことをいいます。

そもそも節句とは、1月1日(後に1月7日となる)の人日(じんじつ)の節句、
3月3日の上巳(じょうし)の節句、
5月5日の端午(たんご)の節句、
7月7日の七夕(しちせき)の節句、
9月9日の重陽(ちょうよう)の節句と、
一年に5つあり、合わせて「五節句」と呼ばれます。

端午の節句は、五節句のひとつです。
それぞれの節句は季節の変わり目でもあり、古来から節句には、この節句のころに厄除けや邪気払いを行っていました。

古来、邪気払いをするには、自然の神の力をもらう必要があると考えられていました。
その神の力が宿っているのが、季節の旬の植物でした。
奈良・平安時代、宮中では、この日に薬草の菖蒲(しょうぶ)やヨモギをつかって、厄払いの儀式を行っていました。
香気の強い菖蒲やヨモギは、病や災厄を避けるとされ、端午の節句は別名「菖蒲の節句」と呼ばれるようになります。
現代でも、端午の節句に「菖蒲(しょうぶ)湯」に入る文化が残っていますね。

五月人形のはじまり

鎌倉時代になると、菖蒲(しょうぶ)の音が「武道を重んじる」という意味の「尚武(しょうぶ)」と同じであることから、
武家の間で、端午の節句を大切にする気風が生まれました。
また民間でも、菖蒲を使って厄払いをする風習が広まっていきます。

さらに、江戸時代の武家社会では、端午の節句は尚武の節日として大切にされるようになり、幕府は5月5日を重要な式日と定めます。
将軍家に世継ぎの男の子が誕生すると、お城の中にたくさんの幟(のぼり)や鎧(よろい)、
兜(かぶと)、槍(やり)や薙刀(なぎなた)などの武具を飾って、盛大にお祝いしました。
この文化がやがて庶民にも広まっていき、武器をもたない町人は、厚紙などで作り上げた兜や薙刀を家の中へ並べたり、玄関前へのぼりを立てるようになりました。

これが、現代の五月人形のはじまりです。

鯉のぼりの誕生

端午の節句には、たくさんの武具とともに、幟旗(のぼりばた)も飾られました。
幟旗はもともと天の神様へ加護をお願いするための目印でしたが、
やがて細長い長方形の旗に絵師たちが競って趣向を凝らした図柄をあしらうようになり、屋外に幟旗を飾るのが季節の風物詩となりました。

そんな幟旗の定番の図柄のひとつに「鯉の滝登り」がありました。

鯉が滝を登って龍になる…という、中国の故事にちなんだ図柄で、
「登竜門」という言葉の由来ともなっています。
鯉が龍になる=試練に耐えて立派な人になる ということから、「立身出世」を象徴する図柄として好まれるようになりました。

この絵柄の鯉を立体に起こし、幟旗の端に小さくつるしたのが、鯉のぼりのはじまりです。

編集部の一言

現代では、鎧に兜、鯉のぼりの他に、金太郎や子ども大将人形、武者絵のぼりなど、いろいろな種類の五月人形が飾られるようになっています。
五月人形は、さまざまに発展しながら、男の子の赤ちゃんの無病息災と、健やかな成長への願いをこめて、現代へと受け継がれてきたのですね。

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